第何次だかの安倍内閣発足の首相の会見をみた。内容は、相変わらず印象に残らない。官僚的(というより官僚が作ったに違いない)言語明瞭意味不明な原稿に、威勢の良いキャッチフレーズを挟み込むだけだから、キャッチフレーズしか頭に残らない。むしろ、憲法改正でも日銀総裁の人事でも野党の質問時間の制限でも何でもできるんだけれどもな、ボク・・という優越感が滲むように感じられるところが気持ち悪かった。
それにつけても、だ。どうしてこれほどまでに自民党が強いのか。総選挙の投票先の調査結果では、若年層ほど自民党への投票割合が大きいという結果も出ている。実際、宇野重規さんは『保守主義とは何か』(中公新書)の中で、チャーチルの「20歳の時にリベラルでないなら、情熱が足りない。40歳の時に保守主義者でないなら、思慮が足りない。」という言葉が、現在は当てはまらないと指摘している。ここ何年か、リベラルという立場が特別な立場のように使われることに違和感を持つこともしばしばだ。しかし、リベラルって、急激な社会変革を求めず、現状の民主主義や自由主義の理念の実現を目指すっていう、ごくフツーの考えじゃなかったかしらん?。学校の社会科で、民主主義や自由主義、憲法の優位性という言葉なんか学ばないのかな。折も折、今日は文化の日、つまり、憲法公布の日だ。これに関連して朝日新聞に載っていた赤坂真理さんの「立憲主義が本当にあるなら、それが書かれていないことが日本国憲法の大きな不備かもしれません。」との談話には、ショックを受けた。どうも、日本国憲法には立憲主義が書かれていない、というのが赤坂さんの考え方らしい。しかし憲法は97条で「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と述べているではないか。赤坂さんは64年生まれだから、私とそんなに年齢は違わない。それでも、最高法規性に思い当たらないほど憲法と縁遠い生活をして来られたのかしらん。
憲法に関連するさしあたっての問題は、自民党の議員達による、野党の質問時間を制限しようとする動きだ。野党8、与党2で配分した質問時間を、議会での議席数を考慮して配分し直そうというものらしい。多数派の質問時間を時間的に優遇する制度は地方議会で用いられてはいる。しかし、これを国会に持ち込むのは誤りだ。そもそも地方自治体の議員と首長は別の選挙で選ばれるから、議会の多数派と首長支持者が一致しないこともある。というより、議会と首長が緊張関係を持つことが期待されている。こうした緊張関係を前提とすれば、首長の追及を議会の多数派がより時間をかけてやれるようにすることには意味はある(それでも、多くの自治体では首長が議会の多数派の神輿にのっているから、そういう自治体の議会での多数派による質問は、時間の無駄と思えるものが多い。)。 一方、国会は議員内閣制をとっている。自治体と異なり、行政のトップである首相は議会の多数派から選出されるから、首相は常に議会の多数派の神輿にのっていることになる。だからこそ、議会と行政府である内閣との緊張関係を持たせるために、議会での少数派に多くの質問時間を認め、政策を慎重にチェックさせているのだ。
議会の多数派が行政府を作る議員内閣制では、多数派の暴走をどう防いで少数派の権利を守っていくかが常に課題となる。少数派に質問時間を多く認めるのは、議員内閣制を支えるカナメなのだ。議席数をもとに質問時間を配分するという発想は、多数の横暴以外の何物でもない。そんな議員に議院内閣制を語る資格はない。(2017.11.3 新海 聡)
2017年11月03日
議院内閣制を語る資格
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2017年08月07日
とんでもない政府への対処法
内閣改造の翌日の会見で首相は「謙虚に丁寧に」国民に説明する、と述べた。この言葉は「謙虚さや丁寧さの内容は首相である私が決める」という理屈を前提としているとみて、間違いはないだろう。案の定、首相の贔屓筋の稲田は、10日にも開かれるという閉会中審査に応じようとしていない。
首相の言葉が信用できない、ということから思い出したのは、井上ひさしさんの「ボローニャ紀行」の一節だ。ボローニャ市の地区評議員会の委員の一人が井上さんに対し、「中央政府というやつはとかく信用がならん。だからこそ、自分の住んでいるところが、自分の街がしっかりと自立しなくてはならんのだよ。」と言った、というエピソードが紹介されている。井上さんがボローニャを訪問した2003年暮れは、ベルルスコーニが首相の座にあり、イタリア中で貧富の格差が広がった時期だ。そうしてみると、先月、仙台市長選で自公推薦候補を野党統一候補が破ったことなどは、日本でも自分の街のことから考えることが、とんでもない政府への対処法として有効ではないか、と思える。
内閣支持率が落ちてきたのに、受け皿がない−ごもっとも。だが、ここはひとつ、誰かかっこいい政治家が彗星のように現れ、受け皿になってくれることを期待するのではなく、地元の首長選挙や議会選挙でもー選挙がなければ、政務活動費のチェックでもいいから、政権の閉鎖体質すら批判しない政治家に一泡吹かせる運動をしたらどうか。支持利率目線の軽佻浮薄な首相には、かなり効くのではないだろうか。
(2017.8.7 新海 聡)
首相の言葉が信用できない、ということから思い出したのは、井上ひさしさんの「ボローニャ紀行」の一節だ。ボローニャ市の地区評議員会の委員の一人が井上さんに対し、「中央政府というやつはとかく信用がならん。だからこそ、自分の住んでいるところが、自分の街がしっかりと自立しなくてはならんのだよ。」と言った、というエピソードが紹介されている。井上さんがボローニャを訪問した2003年暮れは、ベルルスコーニが首相の座にあり、イタリア中で貧富の格差が広がった時期だ。そうしてみると、先月、仙台市長選で自公推薦候補を野党統一候補が破ったことなどは、日本でも自分の街のことから考えることが、とんでもない政府への対処法として有効ではないか、と思える。
内閣支持率が落ちてきたのに、受け皿がない−ごもっとも。だが、ここはひとつ、誰かかっこいい政治家が彗星のように現れ、受け皿になってくれることを期待するのではなく、地元の首長選挙や議会選挙でもー選挙がなければ、政務活動費のチェックでもいいから、政権の閉鎖体質すら批判しない政治家に一泡吹かせる運動をしたらどうか。支持利率目線の軽佻浮薄な首相には、かなり効くのではないだろうか。
(2017.8.7 新海 聡)
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2017年07月12日
共謀罪のある世界
共謀罪のある世界
昨日7月11日から共謀罪が施行された。しかし、共謀罪の適用については、弁護士から見ても、わからないことだらけだ。簡単に言えば、共謀罪とは、複数人が一定の重要な犯罪(といっても277もある)の計画を立て、さらに計画をした者の「いずれか」によって準備行為(これ自体は犯罪ではない)が行われれば犯罪とする、というものだ。ところが、この「準備行為」というのがわからない。国会で、「ビールと弁当は花見」「地図と双眼鏡を持っていたら犯行現場の下見」というバカバカしい答弁が行われた、アレだ。しかも、法成立後も、何が準備行為にあたるかについての疑問には政府ははっきりした回答をしていない。
ここで、ABCDの4人の人間が行きつけのスーパーでの盗みを計画した場合を想定してみたい。政府の説明では、計画だけでは共謀罪は成立しないから、この計画段階では、ABCDの誰も犯罪にはならない。ところがその後、Cがそのスーパーに買い物に行った場合はどうか。Cの行為は準備行為になるのか。また、Cが買い物に行ったことなど知らないABDにも共謀罪は成立するのか。捜査機関の取り調べに対してCが、「下見」を兼ねていたと自白した場合には、ABDについても、計画者の「いずれか」が準備行為を行った場合として共謀罪が成立するのか。こうした疑問があるだけでなく、ここで既に、Cについては自白の強要が、ABDについては、自分でコントロールできない他人(C)の、しかも違法でない行動で罪に問われる危険が発生していることは重要だ。
それだけでない。共謀罪で無罪となるかどうか、という以前に、共謀罪の疑いが生じた段階で、ABCDのスマホやパソコンがまず、押収される。当然、指紋もとられる。下見ではない、と言ってCが20日間の取り調べに耐えたとしても、その時点でABCDのプライバシーは捜査機関に筒抜けだ。では、令状発布の段階で裁判官がプライバシー侵害をチェックできるだろうか。令状を発布するかどうかの歯止めとなるのは、簡単に言えば、「○○罪」が成立したことを「疑う理由」を、捜査機関が示しているか、という判断だ。ところが、共謀罪が成立した今となっては、その「罪」自体が限りなくユルい。「計画」が犯罪の一部となるのだから。
そもそも「計画」をしたことを「疑う理由」って誰にでもあるではないか。私たちは何を考えようと自由だからだ。しかも、捜査機関の要求がほぼ通ってしまう今の令状発布の実態からすれば、共謀罪のある世の中で、令状によるプライバシー侵害のチェックを期待するのは困難だ。こうなると、むやみなことは話さないが花、となってしまう。
共謀罪が監視社会を作る、ということは、共謀罪の適用を想定すれば、明らかだ。そして、最大の問題は、首相も閣僚も賛成した国会議員自身も、共謀罪について理解しないまま、共謀罪を強行採決によって成立させてしまったことだ。法の危険性を知らないということは、法を適用される側の痛みがわからないということだからだ。
仲良しをエコヒイキをする一方で、自分に反対する市民を「こんな人たち」と白昼堂々指差す権力者(とその一派)が、共謀罪という、市民に向けた武器を持つに至った深刻さを、私たちは自覚すべきだ。
(2017.7.12 新海聡)
昨日7月11日から共謀罪が施行された。しかし、共謀罪の適用については、弁護士から見ても、わからないことだらけだ。簡単に言えば、共謀罪とは、複数人が一定の重要な犯罪(といっても277もある)の計画を立て、さらに計画をした者の「いずれか」によって準備行為(これ自体は犯罪ではない)が行われれば犯罪とする、というものだ。ところが、この「準備行為」というのがわからない。国会で、「ビールと弁当は花見」「地図と双眼鏡を持っていたら犯行現場の下見」というバカバカしい答弁が行われた、アレだ。しかも、法成立後も、何が準備行為にあたるかについての疑問には政府ははっきりした回答をしていない。
ここで、ABCDの4人の人間が行きつけのスーパーでの盗みを計画した場合を想定してみたい。政府の説明では、計画だけでは共謀罪は成立しないから、この計画段階では、ABCDの誰も犯罪にはならない。ところがその後、Cがそのスーパーに買い物に行った場合はどうか。Cの行為は準備行為になるのか。また、Cが買い物に行ったことなど知らないABDにも共謀罪は成立するのか。捜査機関の取り調べに対してCが、「下見」を兼ねていたと自白した場合には、ABDについても、計画者の「いずれか」が準備行為を行った場合として共謀罪が成立するのか。こうした疑問があるだけでなく、ここで既に、Cについては自白の強要が、ABDについては、自分でコントロールできない他人(C)の、しかも違法でない行動で罪に問われる危険が発生していることは重要だ。
それだけでない。共謀罪で無罪となるかどうか、という以前に、共謀罪の疑いが生じた段階で、ABCDのスマホやパソコンがまず、押収される。当然、指紋もとられる。下見ではない、と言ってCが20日間の取り調べに耐えたとしても、その時点でABCDのプライバシーは捜査機関に筒抜けだ。では、令状発布の段階で裁判官がプライバシー侵害をチェックできるだろうか。令状を発布するかどうかの歯止めとなるのは、簡単に言えば、「○○罪」が成立したことを「疑う理由」を、捜査機関が示しているか、という判断だ。ところが、共謀罪が成立した今となっては、その「罪」自体が限りなくユルい。「計画」が犯罪の一部となるのだから。
そもそも「計画」をしたことを「疑う理由」って誰にでもあるではないか。私たちは何を考えようと自由だからだ。しかも、捜査機関の要求がほぼ通ってしまう今の令状発布の実態からすれば、共謀罪のある世の中で、令状によるプライバシー侵害のチェックを期待するのは困難だ。こうなると、むやみなことは話さないが花、となってしまう。
共謀罪が監視社会を作る、ということは、共謀罪の適用を想定すれば、明らかだ。そして、最大の問題は、首相も閣僚も賛成した国会議員自身も、共謀罪について理解しないまま、共謀罪を強行採決によって成立させてしまったことだ。法の危険性を知らないということは、法を適用される側の痛みがわからないということだからだ。
仲良しをエコヒイキをする一方で、自分に反対する市民を「こんな人たち」と白昼堂々指差す権力者(とその一派)が、共謀罪という、市民に向けた武器を持つに至った深刻さを、私たちは自覚すべきだ。
(2017.7.12 新海聡)
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